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信念!妥協?エージング!?

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     朝、自民党の駅頭活動をしていて、通学途中の高校生男子の持ちものが私の心に引っかかった。別に何か特別なものを持っていたわけではない。野球部らしき彼は黒い布製の靴袋をバッグとともに持っていて、それに大きく金の刺繍で「信念」と書いてあった。
    彼は心に願ったことを実現することを信念として掲げ、何としても達成する決意を表していると想像できる。それは個人が達成したいと願うことかもしれないし、チームとして成し遂げたい成果に対しての固い決意かもしれない。
    それを見て素晴らしいと思った。その直後、私は55年生きてきた自分の人生を振り返って、妥協も必要だと思った。
    理想は誰だって持てるし、それを目指すことは誰にでもできるけれど、実現できる人は非常に少ない。つまり信念は持っているけれど、実際にそこに到達できる可能性は低いのだ。みんな勝って甲子園に行きたいし、優勝したい。けれども、それがかなう人は1つのチームだけだ。後の人たちは敗北し、その結果に甘んじなければならない。当然達成できなかったという悔しさ無念さが頑張った分だけ強く残る。それをどう乗り越えるか、自分の中でどう消化していくかが大きな課題で、それを克服しなければならない人のほうが圧倒的に多い。

     私の末娘は専門学校2年目で春から就職活動をしている。自分でやりたいと思う仕事を見つけては面接に行くが、ことごとく落とされる。そんなことを繰り返すうちに自信は激減し、大変落ち込む。以前はたくさん持っていた未来への期待感はどんどん少なくなっていく。
     それでも、みんな生きていかなければならない。かつて思い描いた通りの自分でなくても、なんでこうなっちゃったんだろうと思う現実であっても。
     「信念」という文字を見た瞬間、私の脳裏に浮かんだ言葉は「妥協」。
    これができないと多くの人は生きていけない。それは悪いイメージとしてではなく、受け入れるゆとり・幅を持てるようになること。これが「大人」になるということなのかも知れない。

     私はクラシック音楽が好きで、学生時代から自分で演奏したり、コンサートに行ったりレコード・CDを聴いたり、親しんできた。ここ十数年は地元コミュニティFM放送の音楽番組制作やクラシックコンサート主催活動をしている。そんな中で、過去に培われた音楽経験は間違いなく自分の基礎となっているが、日々新たな発見や変遷もある。若いころ好きだった音楽は聞かなくなり、そのころ絶対に好きにならないだろうと思っていた音楽を愛好するようになった。それは自分の中の新たな発見ということだと思う。同時に変わらないものもある。音楽というのは耳だけでなく、体全体で受ける周波数の振動のようなものだから体が感じる心地よさというのは傾向があるに違いない。
    ラジオ番組制作で関わっている方々の影響も間違いなくあって、最近は古楽器の音が私の体に良く合ってきた。

     たまたま最近、ネットオークションで古いオーディオを手に入れる機会に恵まれた。かつて絶対に手が出なかった高級オーディオだが幸運なことに自分の手が届く範囲で買うことができたのだ。期待感を胸に音を出してみると、今まで自分が慣れ親しんできた音とだいぶ違っていた。それは良いとも悪いとも言えない「今までと違う音」である。
    今までも自分の持っていた再生装置が悪いとは思っていなかったが、変えてみると自分の知らなかった世界があったのだという新たな発見と驚きを感じた。オーディオ専門の解説などを読むと、「機械のエージングが何十時間必要」と書いてあることがある。いわゆる慣らし運転ならぬ鳴らし運転だ。確かに新しい機械にはそういうことがあってもおかしくないと思うが、中古に関してはこれまで使われてきたのだから必要ないと思っていた。
     ところが、入手後いろいろ工夫しながら聴いていると明らかに初めて音を出した時とは音が良くなったように感じる。もちろん自分の好みに合うようにイコライザーで調整したり、ケーブルを新しいものにしたり、接触部分の調整をしたり努力もしてきた。そのように自分好みに改善を図った面もあるが、わたしは機械のエージングと同時に自分の耳や受け止める感性のエージングがかなり大きかったように思う。オーディオの工夫と自分の歩み寄りで良い音は出来上がると思う。
     そういえば、思い出すのがバロック音楽のコンサートに初めて行った時の事。古楽器というのはなんて弱々しくて貧弱な音なんだろうと思った。確かに現代の楽器は改良されていて、音も大きいし張りがある。けれども、今現在、私はそう感じてはいない。なんて良い響きなんだろうと思う。今や現代の楽器よりもはるかに好きだ。音そのものが変わったのではない。私が変わったのだ。そもそも、古楽器は現代の楽器と演奏される環境がちがう。小さな音が十分楽しめるサイズのホールで演奏されていた。それがより大きなホール、演奏される場所が変わるのに合わせて楽器も進化して行った。より大きな音、ダイナミックレンジが求められ、それが楽器進化や演奏技術により実現していったのだ。けれども、それによって音楽に優劣ができたとは私は思っていない。かつての音楽は、その与えられた環境に対して最高の品質を返していた。例えば、チェンバロのように音の強弱がつけられない楽器では、演奏法や演奏技術により今と同じ、いやそれ以上の品質を聴衆に返していたと私は思う。

     音・音楽は耳や体から知識や感情・心、想像力など体のすべてを総動員して受ける空気の振動だ。それは出す側が同じものを提供していても、受け取る側がみな同じに受け止めるわけではない。何万人が聴いている大きなコンサートであっても全員が同じに感じるわけではない。聞こえ方も違う。感じ方も。楽しむには音楽に対する知識も大切かもしれない。それはあえて机に向かって勉強しなくても、体験を積み重ねていけば自然に厚くなっていくと思う。

     今はこれが最高と思っているものがあっても、それは信じているだけであっていつまでも続くものとは限らない。
    私の部屋にある以前のオーディオを改めて聞いてみたが、かつて感じていたようにはもう感じられない。新たな体験に私自身がエージングされてしまったから。(と言えばかっこよく聞こえるが、発売当時の定価ベースで15万くらいの装置とその10倍の装置で違いがないはずないか)

     人生を生き抜くには信念と同時に妥協が必要だと思う。改めて言う必要もないだろうが。ただ自己満足できるように、あるいは我慢できるように自分をエージングすること。人間には基本的機能として備わっている。良いことにも、悪いことにも慣れてしまうことが。
    のもと恵司 * 感想・随想 * 14:40 * comments(0) * -

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